地震で熊本城の石垣が壊れたとき、ものすごい衝撃を受けました。
数百年、石垣を基礎に立っていたお城が崩れている姿に、本当に残念でした。
地震の前に訪れた熊本城の写真を見ながら、もっとたくさんの写真を撮っておけばよかったと後悔しました。
崩れた石垣の石を見て、これを元に戻すことはできないのでは、と思いました。
しかし、熊本城を築城したのは、加藤清正が近江から連れてきた穴太衆(あのうしゅう)だそうです。
今も、伝統の技術を守って、「野面積み」という手法で石垣を築く仕事をされている人たちがいました。
穴太衆(粟田建設)を率いるのは、祖父の代に行われていた「野面積み」を見て育った、粟田純徳さんです。
穴太衆によって、なんとか熊本城という貴重な文化遺産が修復されることを願っています。
そこで、こちらでは粟田純徳さんについて、
・粟田純徳の経歴(年齢・高校)を調査!
・穴太衆(粟田建設)とは?
・粟田純徳の父や祖父はどんな人?
を調査していきます。
また、この記事の後半では、
粟田純徳さんについての動画を掲載しています。
ぜひ、合わせてチェックしてみてくださいね。
粟田純徳の経歴(年齢・高校)を調査!
出典:さんち
穴太衆(あのうしゅう)とは、戦国時代に名を馳せた伝説の石積職人のことです。
穴太衆は、自然にある石を加工しないままに積み上げて、石垣を作ります。
穴太衆は、今の滋賀県大津市坂本穴太地区に暮らしていたので、穴太衆と呼ばれていたそうです。
穴太衆が作る石垣(野面積み)が非常に堅牢だと評判になり、織田信長が安土城を築城するときにも、穴太衆は織田信長に召し抱えられてお城の石垣を作りました。
「野面積み」は、一見無秩序に積まれているように見えますが、比重のかけ方や大小の石の組み合わせに秘伝の技が潜んでいるそうです。
言葉で伝えらえる技ではなく、石積みを実践しながら習得していくしかない技術なんだそうです。
野面積みは地震に強く、豪雨に耐えて、なおかつ排水もよくするという工夫も備わっていました。
今、穴太衆の技を継ぐ、株式会社粟田建設の15代目社長が、粟田純徳さんです。
粟田純徳さんのプロフィール
生誕:1968年
年齢:52歳
出身地:滋賀県大津市坂本
職業:穴太衆15代目頭・株式会社粟田建設社長
出典:さんち
粟田純徳さんは、中学卒業後は高校に進学せずに、祖父である「粟田万喜三」さんに弟子入りをしました。
そして、粟田万喜三さんから、自然石を手を加えずにそのまま組む、「野面積み」(穴太積み)を継承しています。
祖父は昔ながらの人で、仕事を教えてくれることは一切なかったそうです。
昔の職人さんがよくいう、目で見て盗め、ということですね。
しかし、穴太積みの「野面積み」には、言葉で説明しても伝えられない、難しい技がありました。
おじいさんである粟田万喜三さんが石をじっと見て、この石を使うと決めたら、それを石の間に入れると、きっちりとハマり、安定するのだそうです。
言葉では伝えられない、感覚があるんでしょうね。
粟田純徳さんは、祖父の技術にはいまだに追いつけないとおっしゃいます。
出典:さんち
粟田純徳さんは既婚者です。
お子さんもいらっしゃるようです。
娘さんと息子さんで、娘さんは成人されていて、息子さんは中学生ですね。
将来、16代目になられるのでしょうか?
穴太衆(粟田建設)とは?
出典:粟田建設HP
粟田純徳さんは、穴太積み工法を行う建設会社「株式会社粟田建設」の社長さんです。
会社概要
所在地:〒520-0113 滋賀県大津市坂本3丁目11-29
法人設立:昭和47年10月1日
資本金:10,000,000円
代表取締役:粟田 純徳
認可事業:土木一式工事・建築とび工一式・石工事・造園工事
営業内容:城郭・社寺・一般邸宅石垣石積及び修復工事
特殊工(曳家、揚揃、素屋根掛工事)
大小宅地造成工事・その他土木建築工事全般
TEL 077-578-0170
FAX 077-579-1379
e-mail info@anoushu.jp
URL http://www.anoushu.jp/
沿 革
明治6年4月:屋号『桶万』に変更
昭和9年8月:粟田万喜三、十三代目継承
昭和39年4月:社名『粟田建設』に変更
昭和39年4月:責任者に粟田純司就任
昭和47年10月:有限会社に変更・粟田純司社長就任
平成17年6月:株式会社粟田建設に変更・粟田純徳社長就任と第十五代目継承
史跡関連主要工事
●国定史跡篠山城跡石垣修理工事
●国定史跡朝倉敏影居城石垣修理工事
●国定史跡彦根城石垣修復工事
●国定史跡竹田城跡石垣修復工事
●国定史跡和歌山城石垣修理工事
●国定史跡高知城跡石垣修復工事
●国定史跡洲本城跡石垣修復工事
●その他各都市の城郭石垣修理工事
●延暦寺・三井寺・西教寺・善光寺他石垣石積工事
●公園、河川、一般住宅石垣石積工事
引用元:株式会社粟田建設HP
穴太衆積みは自然の石を自然の形に積み重ねていくところに特徴があります。
石の心がわかり石の声が聞こえてはじめて一人前といわれています。
粟田建設ではこの伝承された「技」という財産を何よりも大切にされています。
そして、それを更に一歩進めて現代建築の中にも、その「技」を生かせるよう努力を重ねられています。
粟田純徳の父や祖父はどんな人?
粟田家自宅
引用元:株式会社粟田建設HP
故 粟田万喜三
昭和50年:大津市無形文化財指定
昭和50年:黄綬褒章授賞
昭和58年:吉川英治文化賞授賞
昭和60年:滋賀県ブルーレイク賞受賞
株式会社粟田建設 代表取締役会長:粟田純司
平成12年:名工卓越技能章受賞
平成13年:大津市技術文化功労賞受賞
平成17年:黄綬褒章授与
株式会社粟田建設 代表取締役社長:粟田純徳
穴太衆は土木作業全般に通じて居ますが、なかでも一番の特長は「野面積み」です。
自然の石をそのままの形で使って、石垣を積み上げます。
とても堅牢で(丈夫で)美しいのが特長なんです。
その技を、粟田純徳さんは祖父の故 粟田万喜三さんから受け継がれました。
引用元:株式会社粟田建設HP
穴太衆には、マニュアルが存在しません。
形も大きさも違う石をそのまま使うため、マニュアルに残せないのです。
粟田純徳さんは、祖父である粟田万喜三さんから、「石の声を聞く」といわれていたそうです。
と、粟田純徳さんはおっしゃいます。
仕事はまず、石選びから始まります。
実際に石垣を作る現場を見てから山へ行き、石を選ぶんだそうです。
自分の頭の中で組み合わせをイメージして、石を買ってきて、現場に置くそうです。
無駄な石がでないように、石を選びますが、この石選びの段階で、仕事の8割が終わったといわれるほど、石選びは重要な作業です。
これが、石を見る目を養う、石の声を聞くとことだと、粟田純徳さんはいわれます。
祖父の万喜三さんは本当にすごかったと、粟田さんはおっしゃいます。
「僕や親父と比べて、石を見る目がかなり長けていたと思います。
ほとんど石を残さなかったですし、指示するところにピタリと石が入りますし。
規格が存在しない自然石を組み合わせるって、やっぱり難しいんですよね。何年もやってきて、今あらためて当時のお祖父さんのすごさがわかるようになりました」
粟田純徳さん自身は、祖父と一緒に働いていたベテランの職人さんたちに、すべてを教わってきたといいます。
しかし、これからの世代に、どう技術を引き継いでいくか、悩ましい状況だとおっしゃいます。
マニュアルがないのですから。
基本は、現場に出て、やってみるしか上達する方法がないそうなんです。
それに、現在は個人の住宅で石垣を作る家も減ってきています。
お寺や寺院の修復でも、だいたい、丈夫で長持ちが特長なので、一旦修復を終えると長持ちしますからね。
需要が増えません。
それで、粟田建設では、今は海外での施工に活路を見出しているそうです。
ポーランドでの日本庭園の仕事や、アメリカのダラスでは庭園の拡張工事などをされているそうです。
ダラスでは庭園の拡張工事は、建築家の隅研吾さんからのお話だそうですよ。
世界の隅研吾さんですからね。
出典:さんち
シアトルのクボタガーデン
粟田純徳が継いだ穴太積み
出典:さんち
石積みの仕事は見て覚えたそうです
昔の徒弟制度ですね。
始めは礼儀作法から教えられたと言います。
始めは石を積ませてもらえず、ひたすらお手伝いの日々だったそうです。
「周りのことをよく観察せよ」ともよく言われたそうです。
周囲の人がどうしているか、そこで自分はどうしないといけないのか、言われてから行動するのではなく、次に何をするか、何が要るのかを常に考えること、その過程で経験したことが、やがて私が親方になった時の仕事を作り上げる「段取り」に繋がる、それが祖父の教えだったように思います。
穴太衆(あのうしゅう)とは?
穴太衆(あのうしゅう)は、安土桃山時代に活躍した、石工の集団です。
主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団なんです。
石工衆(いしくしゅう)、石垣職人(いしがきしょくにん)ともいいます。
穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔を指します。
寺院の石工を任されていましたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになりました。
それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られました。
現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊(さとぼう)」と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みに特徴を与えています。
出典:さんち
穴太積み(あのうづみ)とは?
穴太積みは、野面積みを指して昭和初期以降に用いられるようになった俗称です。
穴太衆が手がけた野面積みの石垣のことを指します。
しかし、野面積みのことを穴太石垣と誤解されることもあるようです。
穴太衆は石垣職人のことであり、実際は玉石積みや切石積みも行っています。
15代目粟田さんとの思い出
司馬遼太郎「街道を行く」を読み、ぜひ穴太衆の石積みをこの目で鑑賞したいと思い、面識のない粟田建設/15代目粟田さんに「案内を御願い出来ますか?」と不躾ながらも手紙を送ると、「1時間余りなら案内します」と連絡を頂き、小躍りして坂本まで行き、 友人達と粟田さんの説明を聞きながら石垣の街を散策。
お礼もできず、せめて富山名産のお菓子をお土産にお渡ししました。
1時間が2時間と大幅に時間を過ぎても「笑顔」で案内して頂きました。
店の名前は忘れましたが、駐車場の近くの茶店で珈琲を飲みながら談笑した事も、今では懐かしい限りです。
当時は坊主頭の好青年でしたが、過行く歳月とともに粟田さんの容姿は「年齢にふさわしい姿」。
石積みは日本の文化そのものです。
末永く文化を未来に伝えてください。
そう言う私も既に66才・・また粟田さんの説明を聞きながら石垣に穴が開くほど観てみたいです。
穴太衆(あのうしゅう)は、日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。
穴太衆(あのうしゅう)棟梁の粟田純徳さんが石積みのまち坂本をご案内。穴太衆の極意から、石積みと石垣の歴史を学ぶ。
まとめ
さて、ここまで粟田純徳さんについて
・粟田純徳の経歴(年齢・高校)を調査!
・穴太衆(粟田建設)とは?
・粟田純徳の父や祖父はどんな人?
について調査してきました。
いかがでしたでしょうか?
日本には、世界に誇れる技術がありますね。
しかし、穴太積みは現代の日本では継承が難しくなっているようです。
マニュアルがなく、必要性も少なくなり、海外での活路を模索しているようです。
日本中のお城を支えた石垣に、すごい歴史と技術があることがよくわかりました。
穴太衆(粟田建設)が伝統の技術を継承していってくださるように願っています。